最近、ニュースで再び「イラン」という国名を耳にする機会が増えました。
ミサイル、空爆、緊張の高まり――。
その言葉を聞くたびに、私は少し胸がざわつきます。
ミサイル、空爆、緊張の高まり――。
その言葉を聞くたびに、私は少し胸がざわつきます。
実は子どもの頃、父の仕事の都合でイランで暮らしていたのです。

当時はイラン・イラク戦争の終結間際のもっとも戦火が激しい頃で、敵機が接近すると街には一斉にサイレンが鳴り響き、すぐに停電。私も家族とともに地下室に避難するのが日常になっていました。
自宅や近所に爆弾が落ちることはなかったものの、対空砲火のあのドーンと体の芯から響くような音は今でも忘れられません。
戦火が特に激しい時期は、家族や父の会社の人たちと郊外へ疎開したこともありました。
そんなある春休み、家族でイラン国外へ出ていたタイミングで、戦況が急激に悪化。イラクから発出された「イラン領空全域を戦闘地域とし、すべて民間航空機が攻撃を受ける可能性がある」との警告とともに日本外務省から邦人退避の勧告が出され、私たちはイランに入国できなくなりました。旅先の着の身着のまま日本へ帰国し、以来イランへ戻ることはありませんでした。

同時期にイランに住んでいた日本人クラスメートやその家族の方々の脱出劇について聞いたのは、帰国後しばらく経ってから。
当時の自衛隊法では海外での人道支援活動が想定されておらず、自衛隊機を派遣することは法的に困難でした。日本の航空会社もチャーター便を準備していましたが、外務省の判断により最終的に断念。他国の航空会社も自国民の救出を優先したため、日本人は戦下に取り残される形に。そんな中、なんとトルコ政府が日本人のために航空機を無償で派遣してくれたのです。
この国境を超えた救出劇の背景には、1890年、オスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号」が和歌山沖で遭難した際、地元の人々が命がけで見ず知らずのトルコ人乗組員を救助したことへの恩返しがあったそうです。「エルトゥールル号」の話は日本ではあまり知られていませんが、トルコでは教科書にも載っていて、知らない人はいないのだと、以前トルコの人から聞いたことがあります。
帰路を絶たれていた日本人たちは、そのトルコ機で無事に脱出。「飛行機が飛び立ったとき、ああこれで助かったんだ…って、機内で皆が抱き合って拍手したの」——あとからその話を聞いて、私も涙が出そうになりました。後にこの二つの救出劇は、『海難1890』という映画にもなりました。
あれから約40年。
世界は形を変えながらも、いまもなお戦争と緊張を繰り返しています。
一方、今もどこかで誰かを助ける選択をしている人たちもいます。
自分は、どちら側にいたいか。
その問いだけは、忘れずにいたいと思います。
世界は形を変えながらも、いまもなお戦争と緊張を繰り返しています。
一方、今もどこかで誰かを助ける選択をしている人たちもいます。
自分は、どちら側にいたいか。
その問いだけは、忘れずにいたいと思います。



