1986年から1988年の約2年間、私は父の仕事の都合でイランに住んでいました。それは1980年から1988年まで続いたイランイラク戦争の終結直前の、一番戦火の激しい時期でした。
普段は長い歴史によって育まれた独自の文化や美しい自然、そしておせっかいなほど優しいイラン人に囲まれ、楽しく暮らしていましたが、ひとたびイラクの爆撃機がやって来ると、父や母に連れられ急いで地下室に逃げこんで、対空砲火の音が鳴り響くのを暗闇で息をひそめながら待ったりしたものです。爆撃機が来るのは大抵夜なのですが、民家が標的にならないよう政府があたり一帯を停電にするのです。
当時はテレビをつけると、いつも「敵地を陥落した」とか「何人敵兵を殺した」とかいったアナウンスが、前線のバスラ地方の映像とともに流れていました。
当時通っていた日本人学校の先生が、「あれは嘘の数字だよ。本当はあんなに全勝しているわけないんだ。イラクの背後にはアメリカがついているからね。実際はイラン人の方がたくさん殺されているけど、国営放送1局しかないから自国に都合のいいことしか言わなくて、国民はそれを鵜呑みにして、勝てると思って戦っているんだ。ひろこさんはこれから色々なことを勉強して、真実がどこにあるか、自分で考えてられるようにならないといけないよ」と真剣なまなざしで教えてくれたのが、今でも忘れられません。
その学校にはイラン人夫婦が子供たちとともに用務員さんとして住み込みで働いていました。とくにお母さんが穏やかで優しくて、休憩時間にお茶を淹れてくれたり、廊下ですれ違うといつもにっこりと笑ってくれたり、皆彼女が大好きでした。でもあるとき、そんなお母さんが世間話の中で「私も男だったら戦争に行ってイラク人をたくさん殺せたのに!なんで女なんだろう」と言い出したのを聞いて、びっくり。普段優しい彼女にそんなことを言わせる戦争の恐ろしさにただただ身のすくむ思いでした。
その後、イスラムのお正月「ノールーズ」を迎えると戦火はさらに激しくなり、首都のテヘランにいるのが危なくなって、私は家族や飼っていた猫や父の会社の方々と一緒にカスピ海のビラへ疎開しました。
疎開先は地中海気候の美しい村で、学校に行かなくてもよくて、なにもわかっていない私はむしろ喜んでいましたが、あまりにも無邪気にはしゃいで、母に「つつしみなさい」と怒られて解せない思いをしたのを覚えています。今になって、あの時は父も、母も、会社の人たちも本当に大変だったのだろうと想像ができます。
結局戦火は収まらず、私たちは疎開先の地から着の身着のまま国外脱出し、以来、まだ一度も彼の国へ足を踏み入れていません。
あれから30年近く経ちました。私は、真実がなにかを自分で考え、そのための行動ができるようになっているだろうか。遠くはなれた故郷に思いを馳せながら、自分を振り返らずにはいられない今日この頃です。